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ステキな孤立 小松左京「アメリカの壁」を読んで

本から考えてみる

ベトナム戦争で疲れきったアメリカのことを、40年前、小松左京はこんなセリフで表現していました。

 

「アメリカってのは躁鬱型文明で、躁期が終わって、鬱病期にはいったのかも知れん」て。

 

トランプ時代を予言していた!とかで急遽発売となった「アメリカの壁」(電子書籍のみ)を読みました。

 

 

 

<正体不明の壁>によってアメリカが完全に外の世界から遮断、孤立しているにも関わらず、大統領(モンロー!という名)は、それをチャンス(!)とばかりに喜んで受け入れ、ステキな孤立を目指していく、という物語です。

 

「孤立させられても、アメリカはアメリカだけで未来をきりひらいていける力を持っている。アメリカは生きのびる。アメリカには未来がある。そして、アメリカにはまだ宇宙ものこされているのだ」

 

なんてことも、大統領に言わせています。

 

 

2017年のあの人の、発令や言動は、威勢が良すぎてそう状態ぽいけれど、案外これまでのアメリカが果たさざるを得なかった役割にうんざりのうつ状態に入ってしまっての流れの末のものだったのかもと、この小説を読んで感じてしまいました。

 

銃を持つ民主主義―「アメリカという国」のなりたち (小学館文庫)

銃を持つ民主主義―「アメリカという国」のなりたち (小学館文庫)

 

 

 

首都消失 (上) (ハルキ文庫)

首都消失 (上) (ハルキ文庫)

 

 

首都消失 (下) (ハルキ文庫)

首都消失 (下) (ハルキ文庫)

 

 

物体O (ハルキ文庫)

物体O (ハルキ文庫)

 

 

川端康成様、あなたはいくつ花の名前を知っているのですか?

これからどうしよう?

【別れる男に、花の名を一つ教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。】

川端康成『掌の小説・化粧の天使達・花』より)

 

白髪のオールバックの神経質そうなおじいさん、というビジュアルしか浮かびませんが、若い頃の川端康成はどこかダルビッシュに似ているイケメンで、いくつもの修羅場の果てからこんな名文が生まれたんだろうな、というのがうなづけます。さぞかし、花の名前をたくさん教えられたのでは、と。

 

 

かくいう自分は、恋愛経験が乏しいからなのか、花の名前をぜんぜん知りません。

いや、ある程度花の名前は知ってはいますが、名前から実体が浮かばない(実体から名前も浮かばない)

名前と実体が一致しているのは、チューリップ、バラ、サクラ、ひまわり、カーネーションにキクぐらいです。

 

あ、もうひとつありました。ユリです。我が家の玄関に生けられていた添付写真のユリです。

 

心の岸辺に咲いているはずの赤いスイートピーも、その姿形は謎のままです。

 

 

 

過ぎ去った記憶はある時あることをきっかけにふいに蘇ってきます。

背中の爪痕は自分では見返すことはできませんが、花は時限爆弾のように一年に一回スイッチが押されるから残酷です。

 

路傍の花にふと足を止めてしまった時、どこかできっとほくそ笑んでいるであろう花の名の教え人を、恨んではいけません。

小悪魔な企みに簡単に引っかかってしまった我の愚かさを笑えば、円満に時は過ぎさっていってくれます。

 

(写真の花と、文中の花は一致していません。あしからず)

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別名彼岸花曼珠沙華花言葉は、情熱・再会・悲しい思い出・思うはあなた一人、とのこと。球根には、毒もあるそうで、恐るべし川端康成

 

 

掌の小説 (新潮文庫)

掌の小説 (新潮文庫)

 

 

バラバラの名前 (新潮文庫)

バラバラの名前 (新潮文庫)

 

 

昭和の心優しきナンパ学生たちよ、「ラブアタック」は竹取物語だったのね

テレビから考えてみる

40代から50代の方々よ、関西ローカルで始まり、のちにネット放送となった「ラブアタック」という番組を覚えているだろうか。

 

毎回かぐや姫と呼ばれる女性(多分女子大生)が登場し、そのかぐや姫への愛の告白権利を得るために、数名の男子学生がいくつもの過酷でアホらしいゲームを勝ち抜いていくという視聴者参加番組だ。

 

ラブアタック! - Wikipedia

 

液晶でもなく有機ELでもないブラウン管の中では、意味も羞恥もものともしない若者たちが一心不乱に、時おりカメラを意識しながら走り回っていた。

 

 

可愛く魅力的な女子学生がかぐや姫の回では、男子学生らは生物的本能をむき出しに、文字通り「雄」となり、かぐや姫に突進していた。

 

キャンパス内で振り向きもされないレベルの女子学生がかぐや姫の回もあった。そんな時でも出場者らは、運が悪かった、なんて顏を見せることなく、かぐや姫の自尊心を傷つけないよう、サービス精神旺盛にゲームに取り組んでいた。

 

ああ、なんて心優しき昭和の男子学生よ。

 

 

当時10代後半から20代前半だった私は、こうしたかぐや姫を巡る争奪戦、という図式になんら疑問も関心も抱かず、ただのエンタテインメントとして楽しんでいた。

 

 

 

 

で、時は流れ、30年。最近ふとしたことで「竹取物語」の現代語訳を読んでみた。

 

なるほど!「ラブアタック」におけるかぐや姫という名称が、あらためて腑に落ちた。

 

 

 

竹取物語」は「ラブアタック」だったのだ。

 

 

 

竹取物語」といえば、竹から生まれたかぐや姫がロマンチックに恋をして、生まれ故郷の月へと変える悲恋物語だと思い込んでいた。

 

大筋は間違いではない。が、ディテールが少々異なっていること気づいた。

 

 

かぐや姫ははじめ恋に恋する女性ではなかった。

 

むしろ逆に言い寄る男たちに「わたしを落としたかったら、***を手に入れておいで」と、超難問課題を言い渡すお高い女だったのだ。

 

そんな無理を言う女だからこそ、なんとか手に入れたいと願う5人の挑戦者は、ことごとく失敗し、滅んでいく。

 

 

さて、最後にかぐや姫に求愛できるのは誰か?

 

かぐや姫は最後まで恋する心を知らずに月に帰っていくのか。

 

そもそもなぜかぐや姫は、月の国から人間界に下りたったのか。

 

私を含めた多くの世間が思い込んでいるほど、「竹取物語」はロマンチックでもなんでもない。

 

女を手に入れるためならと、あらゆる手段で愚かな行動を続ける男たちの挑戦紀、という側面もあったのだ。

 

 

そう、繰り返すが、「竹取物語」は、平安版「ラブアタック」なのだ。

 

竹取物語」をはじめとする昔物語は、子どもたちにも読み聞かせができるようにと、都合よくアレンジされて世に伝わっているものが多い。

 

あらすじだけを聞くと、ファンタジーで微笑ましくても、全文に触れてみると、おや?と思う内容が込められていることに気づく。

 

「桃太郎」が退治した鬼ってホントに悪物だったのか?

 

こぶとりじいさんの「こぶ」ってなんの象徴なの?

 

40歳をすぎるといまさら昔物語なんて、となる。

 

竹取物語」と聞くと、ああ、竹から生まれたかぐや姫の話ねと、ただそれだけで納得完結して、先へと進む努力をしなくなる。

 

ああ、知ってる、聞いたことある、でもなんだっけ。

 

語れないのだ。説明できないのだ。

 

知識という名のほんの薄い水面を泳いでいるだけで人生を全うしていく、水たまりのミズスマシと同じである。

 

広く浅く万遍なくのジェネラリストから、深く確実な知識を持つスペシャリストへと、そろそろ意向していく必要性を感じてしまう今日この頃である。

 

しかし、「竹取物語」の詳細な内容を知った上で、かぐや姫というネーミングをつけたとしたなら、「ラブアタック」企画者はなかなかの文学愛好者と見た。侮れないぞ、バラエティ。

 

竹取物語(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

竹取物語(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 

 

「夫のちんぽが入らない」書店で買うかネットで買うか問題

本から考えてみる
ここ数年の自分の本の買い方。
 
情報はネットで収集。ウィッシュリストに登録
→店頭で中身を確認&その他の本をチェック
→今すぐ要る!はその場で購入
→それ以外は、緊急性と経済状況に応じてAmazon/Book off OnLine/メルカリ/図書館それぞれからその時々適した方法で入手。
となっております。
 
 
さて、話題の「夫のちんぽが入らない」は?

 

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

 

数日前Facebookでこの本のことを書いたところ、店頭で買うのは恥ずかしい、僕の嫁も同じ悩みを持っていましてね〜困ったもんですの表情をしてレジで差し出す、などのコメントが寄せられました。
 
 
インパクトあるタイトルのものを手に入れるときの心理や選択はおもしろい。
 
 
 
他にもこんなのがある。
 
 
「レンタルCD3枚借りたとき、一緒にMD3枚買うの何か恥ずかしい」
 
この一文は、佐藤雅彦山田一成いつもここから)共著『やまだ眼』のなかで、山田一成が書いているものです。
 
対して佐藤雅彦は、
<本心を悟られることには、なにか裸を見られるような恥ずかしさがある。>と解説をし、続けて、
<例えば、スーパーで豆腐と麻婆豆腐の素を買っているのを知人に目撃された時、書店員に平積み本の上から2冊目を取るのを見られた時など、「麻婆豆腐食べたいんだな」「一番上は嫌なんだな」と見透かされたようで恥ずかしい。同様に、レンタルCD3枚に対して、MD3枚なんてコピーすることが見え見えだ。こんな時はせめてMD4枚と、数の符号をごまかす不毛な努力をしたりする。>
と書いています。
 

 

やまだ眼

やまだ眼

 

 

 
この本は10年前の2007年発行だけど、ずっと記憶の片隅に残っていました。自分もそうかもしれないからです。
 
 
CD をコピーして何が悪い、麻婆豆腐作るためには素が必要だ、という思いの正当さよりも、他者の視線・憶測のパワーが圧倒的で、悲しいかな戦う前に負けている、という例であります。
 
 
 
「夫のちんぽが入らない」を店頭で買うかネットで買うかを迷った時、真っ先に思い出しました。
 
 
 
「夫のちんぽが入らない」をレジで差し出した時、書店員はなにを思うのか。
 
本屋大賞という全国の書店員が選ぶ賞があるように、基本書店員は本についての情報には(おそらく)敏感で、「夫のちんぽが入らない」も、その内容や意味するところに詳しく、レジで差し出されても「ああ、同じ悩みの人ね」とか「まあ、いやらしい」とかなんて思いもしないでしょう。
 
それなのに、ああ、それなのに、なぜ人は(自分は)「夫のちんぽが入らない」を店頭で買うのをためらってしまうのでしょう。
 
 
答えは至極シンプル。
ためらいのもとは、書店員側にはありません。自分のなかにあるのです。
 
「夫のちんぽが入らない」を読みたい、という思いよりも、他者(書店員)がこう思うから、と憶測を過大に膨らませ、敵わぬ相手だと思いこんでしまうのです。
自分の弱さが原因なのに、相手(書店員側)がこう思うだろうからに勝手にすり替えて逃げてしまうのでしょう。
 
 
 
そんな弱さを覆い隠すために不毛な武器を用いてしまう、のが虚しい。
 
MD4枚で数の符号をごまかすように、芥川賞あたりの本を(今すぐ読みたいわけでもないのに)ともに差し出し無類の小説好きを装ったり、
はたまた「Life Shift」や「限界費用ゼロ社会」を「夫のちんぽが入らない」の上に積み重ね、「領収書ください」と、仕事で必要なフリをしたりして。
 
虚しさは、雪のように音もなく降り積もり、いつしか根雪となって固まっていくのです。
 
 
 
思い悩んで相談した時、よくこう言われます。
 
「そんなの誰も気にしてない」「誰も見ちゃいない」「気にするのは自分だけ」と。
はい、それは分かっています。でも、分かっちゃいるけど、それを気にしてしまうのが人間の弱いところなんです。
 
 
自分以外の人がいるから気にする。
 
アドラーの言う「すべての人間の悩みは、対人関係の悩みである」はこういうことなんでしょうね。
 
 
 
 
 
そんなこんなの弱い自分は、発売日当日にネットで買いました。
今だったら店頭はかなりのPOPで彩られ、手にするのにためらいもないことでしょう。
 
 
ところで最近、画像検索がおもしろい。
意味の分からない単語や用語を必要のために調べるのではなく、ちょっとした文章を画像検索すると、いったいなんでこれがの画像、がたくさんでてきます。
 
名付けて画像検索プレイ。
 
 
で、「本心を悟られることには、なにか裸を見られるような恥ずかしさがある」を画像検索すると。まあ、なんでこれが、というものが可視化されていっぱい出てくる。
 
 
思いとか迷いとか、本来ならば可視化できないものを可視化してみると、おもしろい。
 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 

からの、そして、時間経過。
3時間が経ちました。読み終わりました。
 
 
 
 
「夫のちんぽが入らない」を書店で買うか?ネットで買うか?だって?
そんなのどうでもいい。どっちでもいい。とにかく読め、です。
 
タイトルという「上辺」だけに引っ張られて恥ずかしいだの、言い訳考えてだの、のあれこれが不毛に思えるほど素晴らしい作品です。
 
 
普通や当たり前と呼ばれるいろいろな所へ「入れなくて」、でもそれを受け入れざるを得ない決断や決意をして生きている人を否定することで、自分を高みに置こうとしてきたかもしれない今までの生き方に、切っ先鋭いナイフを突きつけられたような身震いを受けています。
 
「入れない」人を弱いと呼ぶのは簡単で、でも、それを受け入れることを決断したのは、むしろ、強さがあったからで、ならば、いったいどっちが強くて弱いんだとの問いが、ブーメランのように舞い戻ってきます。
 
 
 
 
空襲が押し寄せる日々のなかでも、普通の営みの愛おしさを忘れない『この世界の片隅に』の北條家のひとびとは、家が焼かれても片腕をなくしても身内が命を失っても、この世界の片隅に生きざるを得なく、そういう決意と決断をしたからこそ、映画(原作)のラストで、皆さんあんな笑顔をみせてくれることができたと思います。
 
テイストはぜんぜん違うけれど、「この世界の片隅に」がずっと心を支配して愛おしくてたまらない人に、「夫のちんぽが入らない」を捧げたい気分です。
 

 

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 
この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

 
この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

 

 

 

 

 

「お元気で」と去っていく人がいた巨大画材店〜ドキュメント72時間

テレビから考えてみる
「さようなら」「失礼します」「ほんじゃ」「また」「バイ」「ありがとうございました」
相手との関係にもよりますが、人との別れの挨拶といえばこんな感じかな。
 
知ってはいるけれど、めったに耳にすることも口にすることもない挨拶にこんなのがあります。
 
「お元気で」
 
この挨拶は、自分のボキャブラリーには入っていなく、こういう言葉で去っていく人にもなかなか出会えません。
 
 
好きな番組のひとつ、「ドキュメント72時間」(NHKEテレ)の<巨大画材店>の回で、インタビュー終わりに「お元気で」と去っていく女性が登場していました。
 
年齢は60代半ばでしょうか。彼女は自分の油絵を飾るための額縁を選んでいました。値段を尋ねると、十数万円とかもするらしく、ここまで高価な額縁を購入するのははじめてだそうです。
「人生短いと思ったから」「もう好きなように生きるって決めたから」と。
 
 
いままで好きなように生きてこなかったのですか?とディレクターが尋ねると、
 
 
 
洋服はすべて主人が選んできた。自分の好みを買ってきてくれる。口では嬉しいとかいって実は我慢して着ていた。それを、ごめんなさいと言って最近全部捨てた。私は自分の着たい洋服を着ていく。それを言うのも30年かかった。
 
 
 
その彼女がカメラの前を去るとき口にしたのが、「お元気で」
 
 
 
番組は、30年間の我慢、これからの決意、旦那さんとの関係などについてそれ以上一切踏み込まない(撮影では踏み込んでいるかもしれないけれど、放送では言及しない)
こういう人も、こういう人生もあります、と提示するだけ。
 
 
長い会話のなかのひとつひとつと違って、挨拶の言葉に偽りはない。ふと出る言葉に体裁や世間体や関係性の踏み入る隙間はない。
「お元気で」と自然に別れを口ずさめるあの人の人生を想像するのは深い。
 
 
さて、今年もテレビはNHKが9割を占めていました。
本日29日夜「朝まで!ドキュメント72時間2016」があります。
今年の私的トップ10は、
 
浅草花やしきジェットコースター」
「オーダーメイドハンコ屋」
北アルプス 天空のテント村」
「四国松山 海が見える無人駅」
「巨大画材店」
「長崎のお盆 花火屋」
秋葉原 秘密の工場」
昭和歌謡レコード店」
「東京タワーで見る初夢」
 
となっております。どうでしょうか。
 
では、皆様「お元気で」

「沈黙」を読み直したら傑作だった。

本から考えてみる

原作をはじめて読んだのは10代で、当時は全くその良さがわかりませんでした。
で、スコセッシが撮るということでン十年ぶりかに読み直したら、ぶったまげました。こんなにも刺さる傑作だったとは。
 
 
特に「転ぶ(棄教)転ばない」のやりとりが始まる中盤以降のセリフひと言ひと言が問いかけてくる重さは半端じゃありません。 

年齢を重ね、いくつかの「不本意」に出会い、<転んだり転ばなかったり>してきた経験が読み方を変えてしまうのでしょうね。 
 

信者ではないですが、自分を救うための忠実な愛か、自分を犠牲にする他者愛か、この選択は永遠の課題。 
 

予告編のワンカットワンカットから想像が膨らみます。この映画は原作を読んでから観たほうがいいような気が。

 

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沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

新海誠は100パーセントの女の子を見つけたのか

映画から考えてみる

君の名は。」を観終わった後、なんか引っかかるものがあって、その正体はなんだろうと記憶の端っこを探してみたら、ああ、ありました。

 

 

村上春樹の初期の短編に「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」というのがあります。

 

100%の恋人同士が、本当にお互い100%だったならば、再び何処かで巡り会えるに違いない試してみようと一旦別れます。

ところが別々に暮らしている間に悪性のインフルエンザにかかり二人は記憶喪失になってしまいます。何十年か後、二人は互いの記憶がないまま偶然原宿ですれ違うという話です。

 

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

 

 

 

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

 

 

 

新海誠の作品って、その多くが村上春樹のこの「100パーセントの女の子」がベースにあるんじゃないかな。

 

2007年の「秒速5センチメートル」は、記憶喪失ではないけれど、山崎まさよしの、~いつでも探しているよどこかで君の姿を~命が繰り返すならば何度も君のもとへ~の「One more time ,One more chance」がテーマ曲であるように、出会えそうで出会えない二人が描かれています。

 

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2014年の「クロスロード」(Z会の120秒コマーシャル)は、東京と離島に暮らす全く接点ない高校生の男女の生活が交互に描かれます。まさに「君の名は。」の構図そのものです。

(この120秒コマーシャルのコマーシャルとして見事なところは、自身の一貫したテーマをZ会の添削採点者にセリフで言わせているところです。つまりこの不思議な世界に隠された素晴らしきところをクライアントに語らせ、花を持たせている点です)

この「クロスロード」は120秒なので別々の生活をする二人が出会うのはラスト一瞬ですが、互いが100パーセントであることの予感を示しています。

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新海誠は、こうやって100パーセントの女の子的な世界を描き続けてきて、ついに「君の名は。」で、エンタテインメント(商業映画)の形を借りてすべての落とし前をつけたのでは、と思うのです。

落とし前つけたのかどうなのかは、次どんなテーマで映画を作るのかでわかります。

 

 

村上春樹の短編を読んだのはずっとずっと昔で、それでも記憶の端っこからすぐに取り出すことができたのは、描かれている「運命」の切なさが普遍的な命題であるからに違いありません。

 

君の名は。」は、映像がキレイとか音楽がいいとか、いくつかヒットの理由が言われていますが、やはりどこかしか理屈じゃない運命的なものの存在~<<今はまだ><でもいつか><どこかで誰かが><ひょっとして記憶にないだけですでに><きっとわたしにも100パーセントが>~が多く人の心に響いちゃったからじゃないかと、おじさんは思うのです。

 

義侠を味わう 物語を味わう

映像制作の現場から
酒を呑んだ。名古屋在住のアメリカ人と酒を呑んだ。
その酒の名は「義侠」という。

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What does “Gikyou”mean? と彼に尋ねられた。むずかしい。自分のボキャブラリーに義侠の英訳はない。こういう時は翻訳アプリだ。

「義侠」→「Heroism」と出た。英雄主義か、なにか違う。
 
「義侠」そのものの意味を辞書アプリで調べた。
「正義を重んじて、強い者をくじき、弱い者を助ける」と出た。
 
これを訳せば「義侠」という単語の意味を伝えられる。でも、それで日本酒「義侠」の意味するところを伝えたことになるのだろうか。
 
 
日本酒の銘柄には、物語がある。
 
3年間アートイベントでお世話になっている豊田・足助町には「範公」という地酒がある。その銘は、鎌倉の世に足助を治めていた弓の名手・足助次郎重範公に由来する。
 
 
 
岐阜は恵那・岩村町にある岩村城は、日本三大山城のひとつで、戦国時代、信長の叔母・おつやの方が治めていた。この地で作られる酒のひとつに「女城主」というものがある。
 
 
 
ならば「義侠」にも「義侠」たるべき物語があるはずだ。
調べてみた。
 
 
「義侠」は、愛知県愛西市にある山忠本家酒造で醸されている。
創業は古く、江戸時代中期という。
明治の頃、山忠本家はある小売商と年間契約を結んでいた。ある時、米の価格が高騰し採算が合わなくなった。小売価格をあげればいいのだが、そうしなかった。
契約を結んでいた小売商のために、採算度外視で元の価格のまま提供し続けた。
その男気に感謝し、小売商は酒に「義侠」という名を贈った。それが由来らしい。
 
 
 
物語を知る前と知った後では味は変わるのだろうか。
味そのものは変わらない。
だけど変わる。
ガラス製の猪口に揺らぐ透明な液体に、プロジェクションマッピングが投影されたかのように物語が浮かび上がってくる。
口に含んだ酒は、細胞のひとつひとつに、おい、お前に男気はあるか、と問いかけてくる。自信のなさからか、酔いが早い。
 
 
 
「義侠」を味わったのは、碧南市にある日本料理店「小判天はなれ 一灯」
店主には、今秋、仕事で大変お世話になりました。
「小判天はなれ 一灯」は、碧南をはじめとする南三河野菜、魚介、畜産、そして醸造品を使った料理を提供しています。
 
その日味わった料理の一品一品に、南三河の生産者の物語が多く秘められていることでしょう。
育てる物語、収穫する物語、長い歳月熟成させる物語、いくつもの物語が「一灯」のまな板の上で、今一度新たな物語として紡ぎ出されます。
そして色とりどりの器の上から語りかけてきます。
 
食を味わうこと、それは物語を味わうこと。
 

生前退位と3年半後の東京オリンピック・パラリンピック

これからどうしよう?
最近インバウンド関連の仕事〜海外の方々に日本の魅力を紹介系〜が増えてきて、先日もタイ・インドネシアベトナムで流すCMの制作がありました。
 
そのナレーション録りのとき、読んでいただくタイ人女性ナレーターがちょっと悩んでいる様子を見せていたので、どうしたの、と尋ねました(日本語で、です)
 
 
タイ人「読みのトーンはどの程度明るく楽しげにすればいいのですか」
 
日本人「タイの方々に日本はいいところだから来てね、と伝えたいからウキウキワクワクがいいね」
 
すると、
タイ人「そうですか〜」と浮かない顔。
 
日本人「え?ウキウキワクワクじゃ、なにか問題が?」
 
 
 
その理由を聞いてスタジオにいるクライアント、代理店、通訳、制作陣、技術スタッフ全員が「ははぁ〜ん」と思わず頷き、返す言葉をしばし失くしてしまったのです。
 
 
 
 
2016年10月13日、70年もの間タイ国民に寄り添い、「お父さん」と慕われていたプミポン国王が、享年88歳で崩御されました。
 
 
崩御直後の報道を見返してみると、こんな記事がありました。
 
政府機関は一年間喪に服すとし、公務員に対しては黒いスーツなどの着用を指示。一般国民も、30日間は娯楽を自粛し、黒い服などを着るように。
 

 

 
ナレーターの彼女は日本在住なので、いまの現地の詳しい状況ははっきりとはわからないと言いながらも、友だちのFacebookのプロフィール写真には、黒塗りのものがあるといいます。
そんななか、ウキウキワクワクとした私の声を、タイ国民に届けていいものかと、彼女はためらうのです。
 
 
なるほど。気づきませんでした。
10月ニュースに触れ知ってはいたのですが、今も尚とは、思い至りませんでした。
 
 
 
 
日本は来年、平成29年を迎えます。平成になって29年目です。今年のタイのような出来事が、29年前の日本にもありました。
 
 
 
1989年、和暦でいう昭和63年がたった7日で終わった年です。翌8日から平成へと変わりました。
平成と聞いて、はじめはピンときませんでしたが、29年も経つともうすっかり馴染んでいます。
そんな中、議論されているのが生前退位。
 
 
陛下は12月に83歳になられるんですね。
8月にはテレビを通じて「2年後には平成30年を迎えます」と御言葉を述べられています。30年を節目と考えていられるのでしょうか。
それもあるのでしょうが、もしかしてもしかすると、3年半後に開かれるあのイベントのことを心配されているのでは、と思ったりもします。
 
 
 
3年半後の2020年、その年、オリンピックがやってきます。
 
 
 
1988年(昭和63年)9月の、昭和天皇の吐血から翌年1月の崩御、さらにはその後も、日本中に<自粛>というムードが押し寄せていました。
 
記憶が薄れているので、当時を記録した本(貼付の写真)を数冊改めてめくってみました。
 

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まあ、なんと、いろいろな<自粛>があったものです。
 
 
CM、コンサート、イベント、ジングルベル、企業のパーティや宴会、結婚式、優勝セールにビールかけ、ちょっとした町内会や地方のまつりなどなど、自粛や中止や延期がズラ〜と並んでいます。
突然の自粛や中止や延期で経営が行き詰まっての倒産や自殺もあったようです。
 
 
 
あれから29年。
いつかは必ず訪れるであろう次の時も、同じことが繰り返されるのかどうかは分かりません。あの時ほど極端ではないかもしれませんが、まあ、それなりのムードが漂うことでしょう。
 
 
 
「2年後には平成30年を迎えます」
このお言葉の奥にあるご心配に、応えるべきなのでは、とも思ったりします。
 
 
今回改めて昭和の終わりを調べてみて気づきました。
昭和天皇はそのとき87歳だったのですね。
 
今上天皇はまもなく83歳。4年後にはあの時の昭和天皇と変わらぬ年齢となります。
 
 
 
この3年半の間、なにもないかもしれない。でも、なにかあるかもしれない。
 
タイ人ナレーターの戸惑いに触れて、そんなことを思ったりもしたのです。
 
 
 
なにより、8月のビデオメッセージのこの御言葉は、2020年を見据えたものに思えて仕方がないのですが。
 

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、思い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月に渡って続き、その後喪儀に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

 

 

ルポ自粛―東京の150日

ルポ自粛―東京の150日

 

 

THE DAY in TOKYO―崩御から24時間の東京・全瞬間

THE DAY in TOKYO―崩御から24時間の東京・全瞬間

 

 

天皇の門番―皇居周辺に張りついた新聞記者69人の111日

天皇の門番―皇居周辺に張りついた新聞記者69人の111日