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スマホを持った自分を客観的に見る力

先日あるアコースティックライブに半スタッフとして参加して思ったこと。


ステージがはじまる前ギター抱えたミュージシャンがなにやらiPhone操作を始めました。おいおいお客さんが待ってるのにスマホいじりかよ、いいのかよ、と見てたらその訳がわかりました、チューニングですね。アプリのチューニングソフトなんですね、便利な時代です。


と、iPhoneを手にした意味がわかってしまえば納得ですが、その時感じた違和感がどうにも引っかかていてなんだろ。

 

ああ、そうかこれか。

前に読んだイケダハヤト氏のブログを思い出しました。

 

氏の奥さんがこんなことを言っています。


「テレビだったらその場にいる人みんなが見れるし、本は「本を読んでるんだな」とわかるけど、PCとか携帯に向かっている人は、何をしているのかわからないじゃん。それって、コミュニケーションを遮断されているような気持ちになることがあるんだよね。」


イケダ氏は、奥さんのそんなつぶやきに本質をつかれた感がしてこうまとめています。


スマホって目の前にいる人に対して「何をしているかわからない」フラストレーションを与えつづけるデバイス」と。

 


打合せ中や飲み会や誰かと会話中とかにiPhoneを操作する光景をよく目にします(自分もしてしまいます)
打合せ中だったら、話題になっている案件に関するヒントやネタになる記事とか動画をピックアップして指し示すためのiPhone操作、かもしれない。
会話や雑談中だったら、ほらほらこんなネタが、と話題を広げるためのiPhone操作、かもしれない。


iPhoneを手にした理由が明らかになればいいんだけど、それもはっきりとせず、突然iPhoneに注意が向けれるとコミュニケーションが遮断された気分になってしまう(させてしまう)。


たしかににPCやスマホはそれに向かってなにしているのか他者にはわからない魔法のツールです。


企画書作ってるのか2ちゃんねる見てるのかFacebookにいいねしているのか見積もり立ててるのかゲームしているのか、向かっている姿だけではそれが能動的な思考なのか受動的な娯楽なのかわかりません。


特に共同作業中に見かけるそんな行為には、声をかける(指示をする)(依頼をする)遠慮というか躊躇みたいなものが生まれてくるからもどかしい。

 


撮影とか編集とかそこにいる誰もが対象への集中が求められる(集中を必要としている)現場でのその行為は、一体感の欠如さえ感じてしまうことも、時にあります。
いや、ひょっとしたら直面している問題や課題を打開するアイデアやネタを検索しているのかもしれない、と様子を伺うが、新たな発言が出てくることもなく操作を終えるので、いまスマホで何していたんだは永遠に謎、の場合がほとんど。


とはいうものの、自分も今やスマホなしには生活できなくなってしまっています。こんな便利な機械を手放すことはできないし、なかった環境に戻ることもできない。
だから否定もできないし批判もできない。そんな資格もない。

 


ただ、ただ、そんな状況に麻痺して埋没するのではなく、客観的に、イケダハヤト氏が言うように、客観的に、
「デバイスを持っている自分が、周囲に対してどんなシグナルを発しているのか」には敏感であらねば、と思ったりもします。 




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