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情報が多すぎると自信がグラグラ揺らいでしまう

これからどうしよう?
地下鉄に盲導犬が乗っていました。飼い主の足元で床にベターと身体を横たえています。まるで自分の存在を消しているかのようです。
周りの乗客も離れるでも近づくでもなく、カレ(カノジョ?)の仕事を邪魔しない雰囲気が車両いっぱいに漂っています。
 
数駅進んで、次の駅名がアナウンスされました。
すると、カレ(カノジョ?)がすっくと立ち上がりました。
続いて飼い主も立ち上がり、ともに扉に向かって歩き始めました。
 
え、盲導犬は駅名がわかるのか。日本語が理解できるのか。さすが盲導犬
と、感心したけれど、よくよく考えてみたらそんなわけはない。
飼い主がリードかなにかで合図したのでしょう。
 
 
盲導犬だから日本語も理解できる。
一瞬でもそう思い込んでしまった自分にあきれました。思い込みには気をつけねば。
 
 
思い込みっていうと、頑固とか執着とか、ホントはそうじゃないのに信じきっているっていうイメージがあって、思い込みの激しい人は時に面倒です。
 
でも、コトバを言い換えて「自信」となると、途端に揺るぎなく力強いものになるから不思議です。
練習を積み重ねた末に得た自信、経験や才能、実績に基づく自信などは、具体的に形あるものに支えられているからいいでしょう。でも、感覚的な(根拠なき)自信は結構もろい。
 
最近、この感覚的自信ってものに、自信がありません、
 
仕事、に関してではなく、映画や小説に対する評価についてです。
見終わって読み終わって「いいな」と感じても、その訳や正体を自分なりに分析する前に、ついついレビューを覗いてしまうのです。世間はどう評価してるんだと。
 
レビューで高評価ならばそうそうその通りと安心して、低評価なら自分の鑑賞眼は間違っているのかと心配になったり、逆に全然良くないと思った作品が高評価だった場合、オレ見方が間違っていたのかなとか。
 
そんなの気にせず自分の評価だけを信じればいいのに、とはわかってはいるけれど、正解は自分のなかじゃなく世間のなかにあるんじゃないかと自信がグラグラです。まるで答え合わせをしているような感覚です。
 
多分思うにそれは、感覚的な自信そのもの、というよりもその評価をコトバや文章にする能力が弱いからなのかも、と思ったりします。
 
「なんとなくいい」から一歩踏み出して、どこが良かったのかなにが良かったのかどうして感動したのか、を自分なりに表現できてこそ評価なのかなと。



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