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週一回真夜中オンエアのコマーシャルを作る意味はどこにある?

「インターネットが存在しない時代は、いったい知識や情報をどうやって手に入れたのだろうか。検索できないとすれば、ありとあらゆる文献を総当りで漁っていくしかなく、その労力を考えるとぞっとする。それならばいっそのこと、調べないででっち上げた方がいい。インターネット以前の歴史は誰かのでっち上げではないか。」
 
 
てな文章が、伊坂幸太郎の「モダンタイムス」の中にあるのですが、NHKの「新・映像の世紀」第5集までで描かれている世界は、まさにそんなインターネット以前の歴史。
 
 
ここ100年はなんとか映像という形で残っているから映し出された人々の表情を通じて、その時代がもたらした喜びや怒りやあきらめや悔しさなどを、今でもリアルに感じることができます。
 
でもそれも、ある人にとって喜びでもある人にとっては悲しみかもしれませんから、歴史とはなんとも多義性に満ちています。
 
その多義性も、「新・映像の世紀」を見ていると、簡単にひっくり返ったりしていたから、おもしろいというか恐ろしいというか、歴史とは台頭と没落の繰り返しなんですね。
 
 
 
 
映像も写真もなかった時代の歴史はどこまでが本当にあったことなんだろうと時々疑問に思います。
 
文献や絵や、建物や痕跡や、そんなものたちから読み取って推理して組み合わせて、そして科学の力で分析して、「おそらくそうだったでしょう」と、いわゆる専門家の人たちが合意して発表して、その結果が、いま自分たちが知っている歴史になっている、ということなんでしょ。
 
だから未だに新しい資料が発見されると、昔教科書でならった歴史的事実がくるっとひるがえることがあるから、今知っている歴史も推測の結果と割り切ったほうがいいのかもしれません。
 
 
 
 
となると、文献も資料もなにも残っていないから知られていないだけで、もしかすると、スッゴイことが過去に起きていたのかもしれないとさえ思えてもきます。
 
要するに、発見された資料に従って推測されたモノだけが歴史、今現在資料のない歴史は((あったかもしれないけれど)存在しないものとみなす、ということになる?
 
 
 
なんだかこう考えると、こうした「あったかもしれない歴史的なもの」は、身近にもあるなと気づきます。
 
 
「いいのができた」と関係者間で満足しあっても、週に一回ほとんど視聴者のいない深夜枠でしか流れないコマーシャルは、多くの人にとって存在していないのと同じ、ということになって、ああ、悲しや。
 
 
とかなんとか無理やり締めくくるとこういうことですか。
 
(狭くてもいい)歴史に残る仕事をしなくちゃ。
 

 

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

 
モダンタイムス(下) (講談社文庫)

モダンタイムス(下) (講談社文庫)