読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

志布志市「うなぎ少女」動画削除の背景にあった(かもしれない)いくつかのこと。勝手な想像ですが。

最近の動画は予備情報なしで見ることはほとんどありません。紹介記事や配信先情報や添えられたちょっとしたコピーとかで、それが何についての動画なのか、な〜んとなくは、想像ができます。
 
 
だからこの動画も、「うなぎ」「少女U」、水着姿の少女の顔に「養って」のテロップが入ったサムネール写真で、はは〜ん、うなぎを女の子に「置き換え」てるな、と予感はしました。
 
削除前のタイミングで見ることはできましたが、女性差別とか監禁とかカンニバリズムとか言われて、公式ではあっという間に消え去っていきましたね。

 

f:id:ume_tubu:20161002171335j:plain

 

 

 

同じように動画を制作している身としては、こういうケースは素通りするわけにはいきません。
発想から企画の練り込み、細部の詰めのプロセスで、あったかもしれないことを勝手に想像してみます。
 
 
 
まずは「置き換え」に関して。
 
そのものズバリをそのまんまストレートに表現しても目を引かないしさらっと流れてしまうから、皆さんいろいろな工夫をしてなにかに「置き換え」て表現するわけです。
 
 
昔から童話は、人間の愚かさ、醜さ、勝手さを、動物に置き換えていますから、「置き換え」は創作における不変の法則です。
 
人間を動物に、の場合は、観る人は動物たちの愚かさ、醜さ、勝手さに笑いながらも、あららコレ自分たちのことだといつの間にか感情移入しちゃってます。
動物たちのドタバタを通じて、自分自身をも振り返ることができ、人間の愚かさ、醜さ、勝手さに改めて気づかされちゃいます。シニカルなユーモアが満載の、ディズニー、ピクサーなどは傑作がいっぱいです。
 
 
 
その逆の、動物を人間に、の場合。これは難しい。パッと例が思い浮かばない。
オオカミ男は…ちょっと違うか。
 
何が難しいって、真に動物の心なんか分からないから上っ面だけの置き換え、形態模写になってしまう危険性があります。
 
「少女U」の場合も、うなぎっぽさを出すために、クネクネと泳いだり、ペットボトルをつかもうとしてもヌルヌルでつかめないとか、そんなところでしか表現できません。
それらはメタファーなんていうカッコいいもんではなく、モノマネに近いちょっとイタいギャグのようなもんです。
 
特にうなぎの場合、愛情持って育ててますとメッセージしても、スパッと切られてグサッとくしを刺されてジューと焼かれてパクっと最後には食べちゃいますから、感情の入れようがありません。
 
 
 
 
 
この動画の企画(アイデア)が、制作者側か自治体側か、どちらから提案されたのかはわかりませんし知りません。
 
以下、勝手な想像だらけで進めますが、誰かどこかのエライ人の「うなぎをさ、女性に例えてプールとかで泳がせたら」的なポロリ思いつきのひと言を、どこかの誰かが気を利かせて、おっとっとっとと手の平ですくい上げちゃって、「こんなこと言ってるから膨らませて」と、進んでいったんじゃないのかな〜なんて思ったりもして。勝手な想像ですが。
 
 
 
 
 
動画を削除した件について、市の担当者のインタビューにこんなのがありました。
 
――動画製作にあたって女性職員の意見は反映されなかったか?
 
「女性からの批判的な意見も一部では出ましたが、担当部署の総合的な判断で掲載を決めました」
 

 

www.huffingtonpost.jp

 
冷静な職員はいたようです。
 
またまた勝手な想像ですが、今度こんな動画作ろうと思ってるんだけど意見聞かせてと求められ、正直に答えたはいいが、
 
「実はこれ◯◯さんのアイデアなんだ」と付け加えられたとしたら、
 
そんな意見はよくある参考意見少数意見で消え去っていくのです。意見を聞きましたよ、という事実だけがアリバイ的に残るだけです。
 
 
そして最後は、担当部署の総合的な判断。
 
総合的、というのは話し合いの末の合意という当たり前のことを意味するのではなく、大きな声の人に従って「じゃあそういうことで」となってしまうことを意味しているのかもしれません。想像ですが。
 
 
 
なんか最近、似たような話をどっかで聞いた記憶が。
盛り土?オリンピック関連予算の増加?誰々がポロリと言ってるみたいだから◯◯しておこう的な。
 
 
 
 
さあ、総合的な判断で「行け!」となってくると、「ノリ」が推進力となっていきます。
うなぎらしさを人間に置き換えるとなんだ?で打ち合わせが進んでいきます。
こうした、全体の構成やリズムやトーン&マナーではない、ワンポイント的な話になると「ノリ」ってやつは「悪ノリ」に変わっていくから恐ろしい。
 
想像ですが、
どこかの誰かの「◯◯させたらおもしろい」「△△させるとまさにうなぎらしい」とかの、おっそろしいアイデアが、さすがです!と囃し立てられ盛り上がり、ノーリターンなところへと推し進められていくのです。あくまでも想像ですが。
 
 
 
こういう時、意外と演出家は冷静です。
あまりやり過ぎると誤解を招きませんか、と提言します。
しかし、その呟きは大きな声の荒波に巻き込まれ、かき消されていくのです。
ああ、悲しき演出家。
 
 
 
 
こういう炎上動画の場合、演出がよくない、とよく言われます。
この場合の演出、というコトバの取扱いには注意が必要です。
 
 
演出=演出家ではないということ。
 
 
少女にヌルヌルの手でペットボトルを掴ませることをやらせる、のは演出です。
少女にうなぎのようにクネクネとフラフープをやらせる、のは演出です。
 
そして現場で演者に、◯◯してと指示するのは、演出家です。
 
でも、クネクネやヌルヌルをゼロから考えるのは必ずしも演出家ではないのです。
 
どこか計り知れないところで決まったしまったクネクネやヌルヌルを疑問に思いながらも、こうして、と指示する場合だってあるのです。
 
 
演出家は「演出」というパートを務める一員でしかなく、その主な役割は、クネクネやヌルヌルをいかに効果的なアングルで、仕草で、小道具で見せるかを考えることなのです。
 
そこまでさせるのはちょっと?と疑念を抱きながらも、どこかの誰かの指示に従ってやらざるを得ない時だってあるのです。
 
 
だから、演出が良くない=演出家が良くない、ではないことだけ、小さな声で申し上げておきます。
 
 
 
 
 
走り出す前の助走の段階を、制作の場合「プリプロプリプロダクション」といいます。
このプリプロの段階でもっともっと想像力を働かせて、あらゆる可能性危険性を想定しておかないと、取り返しの付かないことになります。楽観は時に危険の呼び水となり、ある種の臆病さも必要です。
 
 
 
盛り土も地下空間も予算増加も、走り出してしまったらもう止められません。
 
とりあえず。あとでなんとかしよう。
 
で、招いた災いをあとでなんとかするのは、指示元ではなく、多くが現場だったりするのです。
 
 
 
「監禁」やら「傷口」やら「えぐり出し」やら、怪しげなコトバを使っていながらもこっちはなんとも楽しい。

matome.naver.jp

 

勝率2割の仕事論 ヒットは「臆病」から生まれる (光文社新書)

勝率2割の仕事論 ヒットは「臆病」から生まれる (光文社新書)