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「夫のちんぽが入らない」書店で買うかネットで買うか問題

本から考えてみる
ここ数年の自分の本の買い方。
 
情報はネットで収集。ウィッシュリストに登録
→店頭で中身を確認&その他の本をチェック
→今すぐ要る!はその場で購入
→それ以外は、緊急性と経済状況に応じてAmazon/Book off OnLine/メルカリ/図書館それぞれからその時々適した方法で入手。
となっております。
 
 
さて、話題の「夫のちんぽが入らない」は?

 

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

 

数日前Facebookでこの本のことを書いたところ、店頭で買うのは恥ずかしい、僕の嫁も同じ悩みを持っていましてね〜困ったもんですの表情をしてレジで差し出す、などのコメントが寄せられました。
 
 
インパクトあるタイトルのものを手に入れるときの心理や選択はおもしろい。
 
 
 
他にもこんなのがある。
 
 
「レンタルCD3枚借りたとき、一緒にMD3枚買うの何か恥ずかしい」
 
この一文は、佐藤雅彦山田一成いつもここから)共著『やまだ眼』のなかで、山田一成が書いているものです。
 
対して佐藤雅彦は、
<本心を悟られることには、なにか裸を見られるような恥ずかしさがある。>と解説をし、続けて、
<例えば、スーパーで豆腐と麻婆豆腐の素を買っているのを知人に目撃された時、書店員に平積み本の上から2冊目を取るのを見られた時など、「麻婆豆腐食べたいんだな」「一番上は嫌なんだな」と見透かされたようで恥ずかしい。同様に、レンタルCD3枚に対して、MD3枚なんてコピーすることが見え見えだ。こんな時はせめてMD4枚と、数の符号をごまかす不毛な努力をしたりする。>
と書いています。
 

 

やまだ眼

やまだ眼

 

 

 
この本は10年前の2007年発行だけど、ずっと記憶の片隅に残っていました。自分もそうかもしれないからです。
 
 
CD をコピーして何が悪い、麻婆豆腐作るためには素が必要だ、という思いの正当さよりも、他者の視線・憶測のパワーが圧倒的で、悲しいかな戦う前に負けている、という例であります。
 
 
 
「夫のちんぽが入らない」を店頭で買うかネットで買うかを迷った時、真っ先に思い出しました。
 
 
 
「夫のちんぽが入らない」をレジで差し出した時、書店員はなにを思うのか。
 
本屋大賞という全国の書店員が選ぶ賞があるように、基本書店員は本についての情報には(おそらく)敏感で、「夫のちんぽが入らない」も、その内容や意味するところに詳しく、レジで差し出されても「ああ、同じ悩みの人ね」とか「まあ、いやらしい」とかなんて思いもしないでしょう。
 
それなのに、ああ、それなのに、なぜ人は(自分は)「夫のちんぽが入らない」を店頭で買うのをためらってしまうのでしょう。
 
 
答えは至極シンプル。
ためらいのもとは、書店員側にはありません。自分のなかにあるのです。
 
「夫のちんぽが入らない」を読みたい、という思いよりも、他者(書店員)がこう思うから、と憶測を過大に膨らませ、敵わぬ相手だと思いこんでしまうのです。
自分の弱さが原因なのに、相手(書店員側)がこう思うだろうからに勝手にすり替えて逃げてしまうのでしょう。
 
 
 
そんな弱さを覆い隠すために不毛な武器を用いてしまう、のが虚しい。
 
MD4枚で数の符号をごまかすように、芥川賞あたりの本を(今すぐ読みたいわけでもないのに)ともに差し出し無類の小説好きを装ったり、
はたまた「Life Shift」や「限界費用ゼロ社会」を「夫のちんぽが入らない」の上に積み重ね、「領収書ください」と、仕事で必要なフリをしたりして。
 
虚しさは、雪のように音もなく降り積もり、いつしか根雪となって固まっていくのです。
 
 
 
思い悩んで相談した時、よくこう言われます。
 
「そんなの誰も気にしてない」「誰も見ちゃいない」「気にするのは自分だけ」と。
はい、それは分かっています。でも、分かっちゃいるけど、それを気にしてしまうのが人間の弱いところなんです。
 
 
自分以外の人がいるから気にする。
 
アドラーの言う「すべての人間の悩みは、対人関係の悩みである」はこういうことなんでしょうね。
 
 
 
 
 
そんなこんなの弱い自分は、発売日当日にネットで買いました。
今だったら店頭はかなりのPOPで彩られ、手にするのにためらいもないことでしょう。
 
 
ところで最近、画像検索がおもしろい。
意味の分からない単語や用語を必要のために調べるのではなく、ちょっとした文章を画像検索すると、いったいなんでこれがの画像、がたくさんでてきます。
 
名付けて画像検索プレイ。
 
 
で、「本心を悟られることには、なにか裸を見られるような恥ずかしさがある」を画像検索すると。まあ、なんでこれが、というものが可視化されていっぱい出てくる。
 
 
思いとか迷いとか、本来ならば可視化できないものを可視化してみると、おもしろい。
 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

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からの、そして、時間経過。
3時間が経ちました。読み終わりました。
 
 
 
 
「夫のちんぽが入らない」を書店で買うか?ネットで買うか?だって?
そんなのどうでもいい。どっちでもいい。とにかく読め、です。
 
タイトルという「上辺」だけに引っ張られて恥ずかしいだの、言い訳考えてだの、のあれこれが不毛に思えるほど素晴らしい作品です。
 
 
普通や当たり前と呼ばれるいろいろな所へ「入れなくて」、でもそれを受け入れざるを得ない決断や決意をして生きている人を否定することで、自分を高みに置こうとしてきたかもしれない今までの生き方に、切っ先鋭いナイフを突きつけられたような身震いを受けています。
 
「入れない」人を弱いと呼ぶのは簡単で、でも、それを受け入れることを決断したのは、むしろ、強さがあったからで、ならば、いったいどっちが強くて弱いんだとの問いが、ブーメランのように舞い戻ってきます。
 
 
 
 
空襲が押し寄せる日々のなかでも、普通の営みの愛おしさを忘れない『この世界の片隅に』の北條家のひとびとは、家が焼かれても片腕をなくしても身内が命を失っても、この世界の片隅に生きざるを得なく、そういう決意と決断をしたからこそ、映画(原作)のラストで、皆さんあんな笑顔をみせてくれることができたと思います。
 
テイストはぜんぜん違うけれど、「この世界の片隅に」がずっと心を支配して愛おしくてたまらない人に、「夫のちんぽが入らない」を捧げたい気分です。
 

 

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

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この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

 
この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)